二年前に書いた日記めいたものが出てきた。
ソウルオリンピックが開幕して、日本中が選手の活躍を願ってTVにくぎ付けだった9月18日、俺はいつもの通りバイトで東京ドームにいた。巨人の3連戦の中日(なかび)で、いつもなら中日(なかび)はドームから直帰出来る日なのだが、試合後本社へ強制召喚された。
二か月前に潜水艦なだしおが横須賀の沖合で遊漁船第一富士丸と衝突した日も同じように召喚されてたので何か大事件が起きたのであろうことはすぐに推測できた。
昭和63年7月23日、ドームから強制召喚され本社へ到着した我々に、うな重弁当が出てきた。夜の10時、確かに仕事終わりでおなかは空いていたけど、会社からうな重がこんな時間に出るという事は何かしらの対価を会社が我々に求めているだろうことはあほなバイトの俺でも分かった。
うな重を食べ終わった総勢20数名のスタッフにこのあと引き続きシフトへ入る様に伝達が下り、あほなバイトだった俺も早速機材の準備に取り掛かった。俺が配属された班のTDはIさんと言う音声の方で最初に現れた時からほろ酔いでかなり酒臭かった。
休日だったのだが家が本社に近いという事から駆り出されて来たらしい。
このIさんはほぼ毎日20時以後は会社で飲んでる人だから別に驚きもなく指示に従う。
1時間後にスタッフのバンとジープと呼ばれてた小型報道車で横須賀の第一富士丸が曳航されてくると予想される港へ向かった。雨が降る港には自分たち以外の報道陣は見当たらなかった。とりあえず機材のセッティングを行い、マイクロのアンテナを平塚か横浜(記憶が定かではない)に向けて芯をだしていつでも中継が繋がる状態まで仕上げたが、リポートする記者もアナウンサーも来る様子がなくこの夜はそのままバンの中でIさんとカメラマンのUさんと仮眠した。
明けて7月23日、朝起きてバンの外に出るとたこ焼き屋と焼きそば屋の屋台が駐車場から港へ続くスロープに店を出すため軽トラから荷物を降ろし始めていた。
人の不幸を逆手に取って商売するのは不謹慎って言えば不謹慎だが、ここに人が集まるであろうと判断して混雑する前に搬入を終わらせているテキヤのおっちゃんたちはある意味ビジネスマンとしては有能だなと思った。
第一富士丸が一向に現れない中、朝からニュースやワイドショーに数回中継を繋いで15時過ぎに引き継ぎのスタッフが到着したので本社へ帰るバンに乗り込んで、社員のIさんたちは出張手当も残業も付くのだろうが日給のバイトの俺は2日分バイト代貰っても時給換算したら絶対赤字だなと考えている間に泥の様に眠りに落ちていた。
起きた時には麹町の別館の中継車車庫にバンは止まっていた。行く前はうな重だったが、帰ってきていただいたものと言えばコンビニで買った下着一式と協賛品で山と貰ったけど誰も飲まない激マズなコーヒースカッシュと言うドリンク一本だった。
俗にいう
なだしお事件が起きた日と翌日の話だ。
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話は63年9月18日に戻るが、本社社屋までマイクロバスで運ばれて招集が掛かっている2階の中継の部屋のへ入ると続々と速報が入ってくる大きなモニターにフロアーの全員が釘付けになっていた。しかしこの日はうな重の用意もなくすぐに解散を告げられた。隣駅のTさんと一緒にアジャンタでカレーを食べて帰った。
このTさん、技術職の人でアキバへパーツを買いに行くと言って昼に会社を出て直帰しますと会社に電話して帰る時、一人だと寂しいので隣り駅に住んでた俺が良く誘われた。一緒にアキバをぶらぶらして肉の万世で飯食って一緒に帰ると言う素晴らしいアルバイトだった。。
巨大な飛行機のラジコンを買わされ一緒に多摩川へ飛ばしに行った事もあった。
ファミコンをステレオ化するという、どーでもいいようなことを会社でやってる人だった。
朝早い仕事の時は甲州街道に立ってると黒塗りのハイヤーで拾ってくれる心優しい人だった。
誰も見ていないとはいえ26,7歳でハイヤー乗って出社してそれが決済されてしまうバブル期のお話。。
話は戻って、
実はこの日、昭和天皇が病気であると発表され、マスコミは対応にてんやわんやだった。
しかしX DAYは今日、明日ではないとの判断で俺は帰宅を許された。
崩御の日まで約3か月半ほどの間ヘルプで皇居内に数回詰めたのはいい経験だった。
前日から皇居近くのホテルに缶詰めにされてマイクロバスで皇居へ向かい身分証明書を提示にして皇居内へと入る。
宮内庁前の庭には民放各社の中継車が並びスタッフが24時間交代で詰めていた。
年配の方は覚えているだろうが、9月19日以降
1日に何回も何回も昭和天皇の下血量や吐血量が宮内庁前からわざわざ中継を繋いでレポートされていた。
運動会の自粛や赤飯屋さんが倒産などいろいろとニュースになった。
あれからちょうど30年。当時の俺はちょうど20歳だった。(注 執筆当時)
翌年、日本の年号は平成と変わり、数か月後おれはLAへと旅立った。
ユナイテッド航空の747の後ろの方の喫煙席でLAまでの12時間を緊張した面持ちで過ごしていた。
飛行機前方から機内食が配膳されていく。後方に位置する喫煙席の乗客がさほどおいしくもないビーフオアチキンを選んでいる頃には前方の禁煙席の乗客は飯食い終わって俺の隣に来てモクモクと白煙を立て始める。
また次に違う客が隣に来て、違う意味でのチェーンスモークにまずい飯が一段と不味かったのが俺のアメリカーンの第一印象だ。
当時は受動喫煙などと言う言葉はなかった。
それはさて置きあれから30年経ち、再来年には年号が変わるという。(注 執筆当時)
今年は平成29年、平成という時代全てを海外で過ごしてしまったな。
日本には頻繁に帰っているし、ネットで日本の事は日本人以上に知っている。
でも、日本の空気を吸って生きてないので俺の中には平成の音や匂いが存在しない。
俺の体は昭和で出来ている。
20歳までにかいだ匂いや聞いた音楽が骨となり血となって俺の体を動かしている。
だから90年代ミリオンヒットをYOUTUBEで見てもピクリとも来ないけど、
80年代ヒットチャートを聞くとあの頃の自分が蘇ってくる。
新しい年号になったら少し日本に住んで見ようかなと思い始めてる自分に少し驚きもあるが、俺の30年間が何だったのか答え探しの旅になるかもしれないと考えている。
注 そんな事を思ってたのが2年前だがまだ同じ場所でボーとしてる。このままここで朽ち果てるのかな。。タイでリタイヤするにはちょっと金が足りない。。
宮内庁での仕事の日々なども機会が有ったら書こうと思う。。
32年前の9月18日の話でした。
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